清洲会議のその後 ~世紀を越えた人たらし~


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清須城(2013年6月撮影)

 先日、映画「清須会議」を観た話をしたので、少しだけ余談を書く事にします。
 映画で取り扱われた清須会議以降について。

 秀吉が神輿とした信長の孫、三法師(織田秀信)は岐阜城主ともなるもそれ以降は大きな出世をせず、関ヶ原で西軍につき敗北。信長の嫡孫という事で助命活動が行われ、高野山へ送られ、高野山を追放された後は郷士として暮らしたようです。
 大名ではなくなりましたが、御子孫はいまだ健在だとか。

 作中で柴田勝家が推していた信長の三男信孝はその後柴田勝家と共に秀吉と争い、負けたのち切腹。
 よほど秀吉を恨んでいたらしく、切腹時に自分の腸を取り出して投げ出したと言われています。
(腸が当たった掛け軸は現在でも残っているそうです)

 作中で「うつけもの」として迷場面ばかり目立っていた信長の二男信雄は本当に大馬鹿者で、それほど意味もなく安土城を焼いたのも信雄が犯人という説があるほど。その後は徳川家康と手を組んで秀吉と戦い、こちらは講和となり、色々あって2万石の外様大名として滅ぶ事無く明治維新を迎えてます。世の中わからないものですね。


 つらつら惟るに、豊臣秀吉の「人たらし」は戦国武将どころか、現在に至るまで発揮されているように感じられます。
 
 よく徳川家康のことを、
「秀吉亡き後、秀頼の事を頼まれたのに、約束を破って一族を殺したのが狡猾で嫌い。」
 という方が、関西方面を中心におられるようです。

 dでも秀吉が綺麗な政治をしていたのならともかく、その秀吉だってそもそも政権は織田家から奪っているのですよね。
 しかも三男信孝の件では、その母である華屋院、つまり信長の奥さんも殺しちゃっているわけです。
 要するに自分が行った政権簒奪を、今度は家康にされただけの話なわけでして。

 それにもかかわらず、秀吉が良くて家康が悪いのが不思議でなりません。
 やっぱり秀吉の人たらしが現在の人々に機能しているからなのではないかなと。


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[ 2013/11/25 00:07 ] 日記 | TB(0) | CM(0)

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